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京都相撲 横綱のお墓

京都相撲 最後の横綱 兜潟(甲形)弥吉・墓碑

京都相撲・名横綱「兜潟弥吉」の墓碑

当時の京都相撲の第一人者で、孝明・明治の天皇にその人柄を愛された横綱、兜潟はお召しにより参内し、行幸にも随行し国事に尽くした。

孝明天皇より「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受け、あぐらを勅許された話は語りぐさとなった。

京都相撲は、明治六・七年ごろには総勢四百五十名以上を数えた。

兜潟は東京や大阪の相撲に対して、衰えゆく京都相撲の行く末を案じ、由緒ある伝統の京都相撲として立ち直らせ、民衆に愛されるための拠点として相撲協会の設立に全力をそそぎ、その第一歩を踏み出した時、この世を去らねばならなかった。

他の頭取・世話人などの多くは現状に甘んじ彼の理想を解せず、やがて京都相撲は衰亡していった。


「横綱土俵入・兜潟(形)彌吉」


「番付表・東 大関 兜形彌吉」

横綱兜潟弥吉について

善想寺に京都相撲横綱、兜潟弥吉のお墓があります。

林 生氏「横綱 兜潟弥吉」の一部転載
林弥吉(後の兜潟弥吉)は美濃大垣藩主戸田候の側近重役であった林本家の直系子孫、林久吉の子として文政7年京都伏見で生まれた。

嘉永末年京都相撲に入って、安政5年夏場所において入幕、文久3年華の峰善吉に次いで早くも大関に昇進した。

慶応4年3月明治天皇が大阪へ行幸されたとき、兜潟は錦の御旗を捧持して先導し奉った。

明治4年7月各界および朝廷に対する兜潟の多年にわたる功績を表彰するため、五条家より横綱を免許された。

明治6年4月京都伏見の大光寺において、兜潟の病気本復祝いのため相撲興行が催された。

明治10年西南役戦没者慰霊のため、3都合同相撲が九段の東京招魂社で行なわれ、京都方代表として参加し、55歳にもかかわらず元気に土俵をつとめた。

明治11年春兜潟は引退して頭取一本となった。

明治15年の正月を祝ったあと、兜潟はかりそめの病気がもとで床についていたが、頭取たちが見舞いに来て話をしているうちに容態が急変し、家族、身内、相撲関係者らにみとられながら59年の生涯を終えた。時に明治15年2月2日のことであった。

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