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善想寺について

永代供養による納骨 墓地の分譲 京都 善想寺

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善想寺の草創

平安時代後期造立の「石仏阿弥陀如来」、「本尊阿弥陀仏」、最澄上人ゆかりの「地蔵菩薩」を祀る浄土宗善想寺。本堂宮殿の菊の御紋・鳳凰の彫刻、御神鏡は、朝廷・上皇が祀ることを表しています。

本堂宮殿

800余年の歴史を見守る石仏阿弥陀如来

本寺の「石仏阿弥陀如来」は、法然上人の教えを聞き、上皇が四条後院内に造立しました。後院とは、天皇の譲位後の御所のことをいいます。本石仏は、高さ1.6m・厚さ70cm、自然石の大きな光背を背に座しており、台座をあわせた像高は90cm。引き締まった慈悲感あふれる表情をされており、重厚で安定感のある、悠々とした石仏です。

天皇の譲位後の御所
天皇の譲位後の御所2

白川の赤石と呼ばれる花崗岩が石仏に使われた時期から推定して、今から800年以上前の平安後期の造立といわれています。建武の戦の際には、本石仏を守るために土中に埋めたといわれます。

善想寺の再建

天正10(1582)年の京都再興期。浄土宗開祖としての法然上人の位置づけが明確化され、知恩院での御忌法要や、50回忌ごとの大師号授与などが行われるようになりました。さらに、天皇家や朝廷によって、上皇が造立した「石仏阿弥陀如来」のある四条後院跡地に、善想寺が再建されます。菊の御紋や鳳凰の彫刻、御神鏡と共に、上皇が祀る「本尊阿弥陀仏」が安置されました。

本堂内の桐・菊の彫刻
石仏阿弥陀如来

善想寺の名前の由来

開基である想阿善悦上人は、天文11(1542)年、31歳の春に洛西疏圃の地を開拓。一寺を建立し、法名の1字をとって「善想寺」と号しました。

最澄上人ゆかりの守り本尊 地蔵菩薩

京都に都が開かれた1200年前から、世の人々の心を受け止めてこられた本地蔵尊。比叡山 延暦寺の開祖である伝教大師最澄上人が自ら掘った一刀三礼の霊像で、大師一代の念持仏(その人の一生を守り続けてくれる”守り本尊”)です。大師の亡き後は、滋賀県坂本村に祀られていました。その後、天正15(1587)年3月23日、正誉上人によって善想寺に遷され、山門の横の地蔵堂に祀られることとなりました。このように天台宗の開祖である最澄上人が掘った地蔵尊を本寺に遷したのは、浄土宗が天台宗浄土教の後継であることを明確に示す意図があったと考えられます。

本地蔵尊

地蔵菩薩の歴史2〜汗出し地蔵尊

滋賀県坂本村にまつられていた頃のことです。日照りが続いた時期に、百姓の作兵衛が地蔵尊に三日三夜、雨が降るように地蔵尊に祈念しました。すると大雨が降り、まわりの百姓たちは田植えを終えることが出来ました。

ですが祈念をした作兵衛は、腹痛のため植えつけを出来ずじまいになってしまいました。しかし翌朝になって、心配した百姓たちが様子を見に行くと、なぜか作兵衛の田んぼの田植えがすでに終わっています。不思議に思いながらも地蔵尊にお礼参りにいったところ、地蔵尊の腰から足にかけて一面泥にまみれておられたのです。腹痛の作兵衛に代わって地蔵尊が田植えをしたのではないかといわれ、それから「泥足地蔵尊」「身代わり地蔵尊」と信仰されるようになりました。

地蔵菩薩の歴史2〜汗出し地蔵尊

善想寺の山門の横に祀られた後、文化5(1808)年の秋。妻の難産に際した堺町の勘兵衛が、一日一夜お祈りをしていたところ、家から安産の知らせがありました。勘兵衛が地蔵尊にお礼に行ったところ、お顔一面に玉のような汗が流れていたのです。それ以来、「汗出し地蔵尊」「身代わり地蔵尊」と呼ばれるようになりました。

諸国霊場 御詠歌全集

「諸国霊場 御詠歌全集」(三密堂書店 昭和5年11月発行)の中に京都六地蔵尊御詠歌の番外として善想寺泥足地蔵尊の御詠歌があります。

洛中六角大宮 善想寺 泥足地蔵尊
「さかもとを はるばるいでて ぜんそうじ
はちすのうえに のらぬことなし」

諸国霊場 御詠歌全集

平安京 四条後院跡地に位置する善想寺

現在善想寺が位置するのは、千余年前に関白太政大臣・藤原頼忠公の本宅があった場所です。後の四条後院※でもあり、天元の大内裏火災の際には円融天皇が一時皇宮にされていました。しかしそれから350年後、元弘・建武の戦で御殿は廃墟となってしまいました。
この地に善想寺が建立されたのは、天正10(1582)年10月のこと。想阿善悦上人が天文11(1542)年に洛西に建立後、戦火で消失したものを、豊臣秀吉公の命により、孫弟子 法春上人が再建しました。

※ 「後院」とは天皇が定めた、譲位後の居所のことを後院といいます。

平安京 四条後院跡地
平安京 四条後院跡地2
平安京 四条後院跡地3

京都相撲最後の横綱兜潟弥吉の墓碑

興行として、神事や武芸として、古くから行われてきた「相撲」。江戸時代には、東京・大阪・名古屋・京都など全国の主要都市に相撲の運営組織がおかれていました。そのうちの1つである京都相撲は、明治6〜7年ごろには総勢450名以上が所属する組織でした。

そんな京都相撲の最後の横綱・兜潟弥吉(かぶとがた やきち)。伏見で生まれた彼は、その人柄を広く愛され、孝明天皇からも「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受け、あぐらを勅許された話が有名です。

京都相撲の最後の横綱1
京都相撲の最後の横綱2

当時は、東京や大阪の相撲に対して、京都相撲が衰えゆく時代にさしかかっていました。横綱は、京都相撲を再建し、民衆に愛されるための拠点としての相撲協会の設立に全力を注ぎます。そしてその第一歩を踏み出した時、明治15(1882)年2月2日に病で亡くなります。

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