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永代供養による納骨 墓地の分譲 京都 善想寺

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平成25年11月住職法話

善想寺の山門横にまつる地蔵尊は伝教大師最澄上人御作とあり、善想寺開山上人が天正15年(1587)3月23日阪本村から「不思議の因縁を以て此寺に請待し境内に奉安し玉ふ」とある。不思議の因縁とだけあり、当時まつられていた場所や大師ゆかりの重要な地蔵尊を迎える経緯など具体的には何も書かれていない。

梅原猛先生の著書「京都発見5巻」の7章、聖衆来迎寺と天海 を読むと
「聖衆来迎寺は伝教大師最澄が自ら彫ったという地蔵菩薩を本尊として建てられた地蔵教院という名の寺であった。この寺にかつて『往生要集』の著者で、日本に浄土教を広めた恵心僧都源信が住んでいた。寛仁元(1017)年3月15日ひたすら観法をしていると、比叡山の横川あたりに阿弥陀仏が二十五菩薩を伴って来迎する姿が見えたので、そのありさまを描き版木に彫った。その縁で寺の名を聖衆来迎寺と改めた。」と書かれていた。

「聖衆来迎寺」を検索すると
「日本における浄土信仰普及の基盤を築いた源信の『往生要集』に基づく図像で国宝「六道絵」15福がある。聖衆来迎寺は、宗派および地理的位置から考えて、比叡山関連の寺院として創建されたものと思われるが、室町時代以前の歴史は資料が乏しく判然としない。寺伝によれば、延暦9年(790年)、最澄がこの地に地蔵菩薩を祀る寺を建て、地蔵教院と称したのが聖衆来迎寺の起源であるという。しかし、「地蔵教院」についてはこの寺伝以外に資料はなく、宗祖を開基に仮託した伝承の域を出ないものと思われる。その後長保3年(1001年)、源信(恵心僧都)がこの寺に入り、念仏道場として再興したという。源信がこの寺にいた時、紫の雲に乗った阿弥陀仏と二十五菩薩が現れるのを見たところから、紫雲山聖衆来迎寺と名付けたとされる。」

これらの文章から聖衆来迎寺は、最澄上人ゆかりの地蔵尊を祀る地蔵教院として創建されたのが起源であるが寺伝以外に資料はなく伝承の域を出ない。室町時代以前の歴史は資料が乏しく判然としない。

「最澄上人ゆかりの地蔵尊がまつられていた」という寺伝(記録)以外は判然としていない。

また阪本 眞光寺を検索すると
「聖衆来迎寺中興の祖、真玄上人が天文20年(1551)、延命地蔵菩薩像(国重要文化財)を本尊として安置し、当寺を創めた」とある。

この眞光寺地蔵尊は半跏像で像髙など善想寺地蔵尊とよく似たお姿である。聖衆来迎寺、眞光寺の阪本の寺院と善想寺開山との間には不思議の因縁が思い浮かんできます。

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