大いなるものは共通性の中にある。浄土信仰の大きな流れにより事実は差別化による一人一人の独自性の中にあるものとなる。
即ちこの世とは共通性に支えられた一人一人の独自性としてある。
また事実はある視点の有無を超えて存在としてある。先ず浄土(死後の世界)から見るこの世(事実)は存在としてある。
生命活動は生と死の二分化であり共通性は二分化の双方のすべてである。自然、生命、人間は共通性において存在としてある。
したがって人間は自然として存在し生命として存在し人間として存在する。
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