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平成29年4月 住職法話

地蔵講を始めて30年余り経ちます。最初の頃はこんな法話をしていました。「距離がなければ流れはない。あらゆるものが等速度であったとしますと、場は生まれません。場所はない。しかしあるものと他方のものとの間に加速度が働くことによって、このとき場が生まれます。しかし等速度に加速度が加わったものという見方もできるわけですから存在(等速度)と流れ(加速度)は表裏の関係となります。」

存在と流れの双方関係は言葉も含めたあらゆる表現の基礎であると思います。この表現のなかで仏教は流れをその世界観とし、この世と浄土を双方関係とします。すなわちこの世を空とし、その起点を無、浄土としていきます。人間が言葉によって世界を見るとき存在かもしくは流れの一方を捉え世界観としていきます。それ以前は存在と流れの双方関係が最初の世界観であった、本能すなわち自然が生まれます。すなわち存在と流れは双方関係として現れず一つのものとして現れる。

神々がいろいろな関係性をもってこの世界があり、また人はその子孫としてあり、仏教の縁起の世界という関係性の中で生きていきます。神仏習合は流れ(縁起)としての世界の基本である双方関係という関係性としてあると思います。関係性の世界において神仏の存在が現れます。

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