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阿弥陀如来の四十八願について

阿弥陀仏の第十八願などというように仏教の中心には 「願(がん)、ねがい」 があります。その願について項目別に、新・佛教辞典(中村元 監修)の本文を紹介します。また(  )内は私見や説明を述べたものです。

◇「願」― 求めるものを立ててそれを得ようと願うことをいう。仏は衆生を救うため、菩薩のときに願を立て、衆生は悟りを得るため修行に当って願を立てる。阿弥陀仏に四十八願、薬師如来に十二願、普賢菩薩に十願があり、恵思に立誓願文、最澄に願文がある如くである。(仏の願と衆生の願が併記されており、仏と衆生は願により通じ、つながっています。仏は衆生を救うためであり、また衆生はこの世において至るべき物事に至ることを願うものであり、すなわち悟りを得ることを願うものであります。)

◇「三願」― 菩薩がたてる願をいう。すなわち真理を悟らせ、倦(う)むことなく教えを説き、生命をなげだして正しい教えを守ろうという(三つの)願をいう。 また特に阿弥陀仏のたてた四十八願のうち、念仏するものを救うことを誓った第十八願と、臨終には迎えに行くことを誓った第十九願と、3度生死を重ねる間に必ず救おうと誓った第二十願との三つをさすことがある。

◇「本願」― 1)仏・菩薩が過去において、生ある一切のものを救おうとして立てた誓願をいう。即ち阿弥陀仏の四十八願、薬師仏の十二願の類。 2)浄土教では阿弥陀四十八願中で特に第十八願を指し、王本願ともいう。

◇「四十八願」― 大無量寿経に説く、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に立てた願をいう。仏になった暁には、下に述べるようなことがすべて存在しないように、もしその時なお下のようなことがあるならば、仏とはならない、と誓ったものである。いま代表的なもの幾つかをあげると(数字は願の番号)、11)国中の人・天が必ずさとりを得ないならば、仏とはならない。

12)光明と、13) 寿命に限りがあるならば、仏とはならない。17)一切世界の諸仏が私をほめたたえないならば、仏とはならない、18)一切の生あるものが、至心にに信楽(しんぎょう)して私の浄土に生れようと欲し、わずか十声の念仏でも称えたひとを救えないならば、仏とはならない、19)そのような人の臨終の床に迎えに行けないならば、仏とはならない、などと誓われている。(光明は仏・菩薩の智恵を象徴するもの。阿弥陀仏を讃嘆して、無量光、無礙光など十二光をもっていうのは一例。仏の寿命には限りないということから無量寿(アミターユス、阿弥陀)と呼ばれる。)

上記、新・佛教辞典の本文からもわかるように、仏の生ある一切のものを救おうとして立てた誓願と、そして衆生の至るべき物事に至ることを願う、悟り(仏の教え)を得ることへの願い。縁起の世界であるこの世では仏と衆生は願を通して双方の関係であり、これが仏教であるといえます。

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