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平成21年春彼岸会法要・法話(3月20日勤修)

彼岸とは河の向う岸のことで到達する終局・理想・悟りの世界です。この世を此岸(しがん)と言います。

春分・秋分の日は昼夜の時間を正しく2分して中道(広く偏らない心)の姿を現し、また日輪は正しく真西に入りて西方極楽の所在を明かします。

これを私たちの修行の好機、浄業の良縁ととらえ、私たちを支える大いなるものに思いをめぐらし、日々の懈怠を改め、修善のよりどころとすることが彼岸の心です。

彼岸会(彼岸の仏事)は春分、秋分の日を中日としてその前後7日間です。平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には一般の間に年中行事化しました。

善想寺は毎年春と秋の彼岸中日(春分・秋分の日)に彼岸会法要を善想寺本堂にて午後2時より勤めています。

下記は本年春彼岸法要後の法話の内容です。

彼岸会法話

聖徳太子は1400年前に活躍され、仏教を学び帰依し、広められた方です。

人間の衣食住は自然と生命の間に生じるものであり自然や生命への信仰を通した世界観はすでに日本にあり、太子は司る立場の人でした。

やがて農業を始め、衣食住を通した営みはいろいろな人間関係を生み出し、また多くの人口を支えるようになります。

ここに多くの人間と人間の間に生じるものの影響力は一人ひとりの人間にとっては自然と生命の間に生じるものの影響力と並ぶものとなってきます。

聖徳太子は人間と人間の間に生じるものが仏教によって教えとして表現されており人々を導くものと考え、和の精神を基とした17条憲法を制定されます。

ここに青年のような若々しい国が生まれていきます。人々が自然と生命の間に生じるところの大いなるものから、さらに人間と人間の間に生じるところの大いなるものに目を向けた時代であり、人が今ここにあることを祖先をはじめ時空を超えた多くの人間により積まれた功徳の表れとしてこの世界をとらえます。

私たち人間が仏前法要に参列するゆえんです。聖徳太子は神仏習合を取り入れ、日本はやがて奈良時代の東大寺大仏開眼法要などの国際化を迎えます。

以後、明治を迎えるまで神仏習合の発展を見ます。

善想寺と聖徳太子は六角堂を通してあるご縁をいただいております。

聖徳太子は用明天皇2年(587年)大阪四天王寺建立のための用材を求めてこの地に来られました。

そしてある日、今の六角堂の辺りに泉が在り、太子が沐浴のため木の枝にかけた護持仏(観音菩薩)は、その枝から離れなくなりました。

その夜、夢の中に仏が現われ「これからは、この場所にとどまり衆生の救済に当たりたい」といわれました。

太子はここに六角の御堂を建てて護持仏を安置されました。

太子亡き後はこの六角堂を小野妹子がお守りされ、以後代々小野家の人が六角堂を守り、その住職が華道池坊家元です。

善想寺の墓地には350回忌を迎えた2代目専好師や池坊家元代々10名の霊位がまつられています。

観音信仰、太子信仰は今も人々の心にあり、六角堂には多くの参拝者が見られます。紫雲山 六角堂 頂法寺といいます。

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