平安後期、法然上人より6歳年長の後白河法皇、また法然上人より15歳年長の平清盛がいる。
法然上人が専修念仏を開宗する43歳のときには後白河法皇49歳(66歳崩御)、平清盛58歳(64歳寂)とまさに平家そして院政の時代である。このとき源頼朝29歳。
後白河法皇の勅請により天台の学匠とともに法然上人が「往生要集」を講ぜられたとき、法皇感激のあまり「似絵名人」といわれた藤原隆信に法然上人の真影を描かしめる。
清盛は京都でも大きな勢力を持つようになっていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったものの、強大な武力を持つ宗教勢力が皇位継承のような重大な政治問題にかかわることを止めた意義は無視できない。この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていく。
平家の兵火により東大寺大仏殿が焼失する。法然上人は東大寺造営勧進職に請われるも故あり辞退している。俊乗房重源、勧進職に任命される。後白河上皇・九条兼実の奇進。重源の精力的な活動により1185年には後白河法皇の列席のもと大仏開眼法要が営まれ大仏殿再建を開始、源頼朝に用材運搬協力を要請、瀬戸内海の航路・湊の整備をおこなう。1189年、重源は東大寺造営大勧進職に就く。1195年には、後鳥羽上皇、源頼朝・政子らの列席のもと落慶法要が営まれた。
1204年、後白河法皇13回忌法要を法皇ゆかりの寺院「長講堂」(現、下京区富小路通六条上ル)で営んだ。「法然上人行状絵図」(国宝)にその法要の場面が描かれている(法然上人72歳)。
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