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永代供養による納骨 墓地の分譲 京都 善想寺

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平安時代後期、石仏阿弥陀如来の造立者は

平安時代後期には、京内に安置された仏像が信仰を集めることもあったが本格的に寺院が建立されるようになるのは法華宗が京に進出した室町時代以降である。

平安時代後期を保元の乱(1156年)以降から鎌倉幕府(1192年)までとするとこの年代に善想寺石仏阿弥陀如来は造立されたと思われる。白河の赤石による石仏造立は800余年前とされている。

石仏は後院跡地からの出土であり後院内にまつられていたと思われる。これは上皇等の皇族による造立と考えられる。善想寺本堂内宮殿の菊、鳳凰、御神鏡は皇族がまつる阿弥陀如来を表わす。後白河法皇による造立ではないかと思う。後白河天皇(1127~1192)は平安後期、京都三条殿で生まれ天皇在位は3年、その後法皇として院政。

後白河法皇は生涯で今様と共に情熱を傾けたのは神仏への信仰であった。長寛2年(1164年)蓮華王院(三十三間堂)造営、元歴2年(1185年)東大寺大仏の開眼供養では高い足場によじ登り、天平の開眼時に使われた筆を使って開眼作法を行い人々を熱狂させた。

院政期には熊野詣でが流行し34回おこなった(白河院9回、鳥羽院21回)。清盛が毎年、福原で催した千僧供養では僧侶の一人として供養に参加。健礼門院のお産の際、高僧たちに交じって安産の祈祷をした。

1169年43歳にて法皇。 造寺、造仏を盛んに行う。法然上人より「往生要集」の講義を受ける。

崇仏心に篤く極楽往生への願いもひときわ強かった。『吾妻鏡』によると、声高に念仏を70遍唱え、手に印契(いんげい)を結び、座ったまま眠るがごとく往生したという。何事も自分の意思で成し遂げようとする後白河法皇らしい最後であったという。

後白河法皇(1127~1192)の生涯は今からちょうど800余年前であり、これは善想寺石仏阿弥陀如来の造立の年代と一致する。また調べてみた資料ではこの時代の天皇、法皇に法然上人、阿弥陀如来への浄土信仰でかかわりを持つ人はいないように思われる。善想寺石仏阿弥陀如来は法然上人から往生要集の講義を受け、また念仏を唱え眠るがごとく往生した後白河法皇の造立によるものと思う。66歳六条殿にて崩御。

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