養老孟司先生の知恩院における講演で聞いた「空が1、無が0」からこの対応は「この世、死後の世界」と言えるものであり、これは浄土教文化が人間の生命活動の基本である重要な文化であると思う。
法然上人が比叡山を降りて人々に念仏を説いたとき極楽往生を喜んだ。即ちすでに当時の人々はこの世と死後の世界(浄土と地獄)という世界観を持っていた。
法然上人は死後の世界、無の世界を念仏信仰という動かないものによって位置づけた。
死後の世界である浄土(八正道を説く仏の世界)は空(この世)の世界に対するそれ以外のもの、基点、他方に位置するものである。死後の世界はこの世においては無であり空は色に対する全体と部分の関係である。
死後の世界は空の世界に対する無であるがそれは浄土として仏の言葉によって解き明かされる仏の世界である。
法然上人の称名念仏により心は浄土、死後の世界、無、に至り全体、この世、空の世界を表していく。即ち無の双方関係である空は全てを表現し、一人一人の心は無において共通する。即ち一人一人のすべての心は無、浄土において共通する。
全ての人間、一人一人に共通の基点が念仏である。念仏を基点とする心を持ちそれを基に多くの判断をする毎日を送る人間は念仏がその重要な基点の一つであります。
場所と視たこの世は自らの存在は他方に対する一方であり、自らの生命を一方とすることが浄土教文化である。
それは数字の世界と同じく人間の重要な事実を表しうるものなのである。
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