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住職法話 四条後院跡地(善想寺境内)

円融天皇在位期間15年の間に内裏が三度も焼亡している。貞元元年(976)五月、天元三年(980)十一月、同五年十一月の三回である。

内裏が火災にあったり、あるいは修理を行ったりして使用不能の場合、天皇は後院と呼ばれる京内の別邸に一時転居するのが通例であり、天徳四年の内裏焼亡でも、村上天皇は平安宮の東南に隣接する冷泉院に移っている。

ところが一方で、後院は太上天皇(上皇)の御所としても使用され、円融天皇の時代には冷泉太上天皇が冷泉院や朱雀院といった後院を御所としていたため、貞元元年と天元五年には兼通の堀河院、天元三年には頼忠の四条院を御所とした。

このうち四条院については、これを後院とみなして天皇が御所としたという記載が『日本紀略』などにあり、そこには、依然として内裏が使用不可能の場合に使用される御所は後院であるべきだとの考えが示されている。(上記全文 講談社 天皇の歴史03巻「天皇と摂政・関白」 著者・佐々木恵介)

また百練抄に天元二年(979年)太政大臣頼忠私家を以て造進し後院となすとある。天元三年十一月二十二日大内裏炎上し、内裏造営時の天元四年七月七日、円融天皇四条後院に行幸あり、一時皇宮となった(日本紀略巻七に、四条後院は太政大臣四条坊門大宮第也と記されている)。

その後、元弘、建武の京都の戦(1,331~4年)で御殿は廃墟となる。天元二年の後院造進より御殿は350年間この地にあった。

「また平安京内には東寺・西寺があったが、それ以外に寺院の建立は認められず、貴族たちは条坊の外に寺院を営んだ(宇治平等院など)。平安時代後期には、京内に安置された仏像が信仰を集めることもあったが、本格的に寺院が建立されるようになるのは、法華宗が京に進出した室町時代以降のことである」(山川出版社 詳説 日本史図録)

またこの地には、御殿廃墟から100年後の永享六年(1434)より天文五年(1536)の「天文法華の乱」までの102年間、本能寺があった。

そしてその本能寺移転から50年後の天正十年(1582)十月帝都復興の秀吉公の命によりこの地に善想寺が再建される。この地が善想寺境内となってから石仏阿弥陀如来が出土する。この石仏は白川の赤石でありその造立の年代は800年以上前のこととされている。

したがって前述の「詳説日本史図録」から平安時代後期、この石仏は120年以上四条後院の敷地にまつられていたと考えられる。

平安時代後期、四条後院内のこの「石仏阿弥陀如来」と善想寺本堂内の「本尊阿弥陀如来宮殿の菊、鳳凰、御神鏡」は日本の浄土教文化の始まりを表しています。

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