先日、母校の洛中小学校の子どもさん4人が「お寺のことについて教えてください」と言って寺に来てくれました。
資料を渡して早速お墓の石仏阿弥陀如来や墓地中央の供養塔や華道の家元歴代墓碑、京都相撲の最後の横綱の墓碑など案内し、山門横の地蔵堂に入りお地蔵さんは釈尊がなくなって弥勒仏在世までの無仏時代のあいだ衆生済度のためにおられる菩薩であることを言いました。
本堂では参列席に座って、浄土の理解のためにこの世と浄土というように双方関係として捉えることを言いました。
また一方が消えると他方も心から消えると言いました。
生と死、男と女、慈悲と知恵などは双方関係(二分化による)としてあるといいました。
渡した資料も文章が難しいかなと言ったら「大丈夫です」と言い、双方関係の説明もじっと聞いていてくれました。
私は中学生のとき夏休みに実験でビー玉どうしをぶつけて、その中で等速度と加速度について考え、その後永い間その二つの違いについて言葉を見つけていったことを覚えています。
仏教は縁起の世界(加速度の世界)を表します。この基本は全ては双方関係にあり変化していることでありとどまっているものはありません。それは流れとして表現できます。
これに対して例えば数字の世界としての四則計算や幾何学や自然界の多くの事象などは時間に関係なく原理として存在するものです。
そしてこの両者は現に一つのものとして成り立つものです。等速度の存在とは流れの中には存在しない時間を超えたものであり等速度と加速度は表裏の関係にあると言えます。
双方関係を基本に置く仏教の世界観は「山川草木悉有仏性」として自然と生命は隔てない世界を表していくことになります。この万物が双方関係にある世界観から、自然 生命 人間が表されていきます。
生命には自然における生命活動(衣食住など)というものがあり、さらに人間には社会における功徳というものがあります。
これは阿弥陀如来を表す無量寿仏、功徳蔵であり人々を救おうとする阿弥陀如来が現れる所以です。従って阿弥陀如来と人々は双方関係にあると言えます。
これはこの世と浄土が双方関係にあることであります。また時代を超えて、姿を変えて表裏のものである等速度の世界が存在すること、即ち原理であり姿を変えて繰り返される世界もこの世であり、等速度と加速度の世界は表裏の関係即ち双方の関係にあります。
即ち一方が消えると他方も消えます。双方は心の中にあります。双方関係を理解することにより心に、より深い言葉が生じるものと思います。
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