法然上人の生涯は、その教えが人々に広まるほどに既成教団の圧力等々から、流罪となり再び京に戻られて数年後の建暦2年(1212年)に80歳で亡くなられている。
しかしその教えは大きな流れとなり、日本の仏教を支えるものとなっていく。
法然上人入滅の300年後、日本仏教の開祖の一人とする位置付けが天正の帝都復興の前後に見受けられる。
帝都復興の50余年前の大永4年(1524年)、後柏原天皇より「知恩院にて法然上人の御忌を勤めよ」という「大永の御忌鳳詔」が出され、その後知恩院において毎年勤められ現在に至る。
また天正の帝都復興のおよそ100年後の元禄10年(1697年)には東山天皇から大師号「円光」が贈られ、500回忌以降50回忌毎に大師号が贈られている。
平成23年には今上天皇から大師号「法爾」が贈られている。
上皇と法然上人ゆかりの石仏を通して天正10年(1582年)に創建された善想寺本堂など大永4年から元禄10年までの約150年をかけて、帝都復興後における神仏習合の中心に称名念仏の位置付けがなされたと思われる。
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